教員時代はこの時期はとても忙しかったが、今はマイペースの暮らしの心地よさと、
その自由さに慣れてしまった。お尻に火がつくまで追い込まれて、集中力を爆発する
タイプだが、少々反省している。(確定申告でe-taxがフリーズして慌てた!)
個展まで逆算すると3か月で作品を作り上げなければならないことに気が付く!
年は中国画の人物に加えて、一文字書の小作品も含めようと思う。
どんな文字を書こうか?考えていると友人がInstagramに質問できる機能があるという。
手取り足取り?教えてもらって何とかアップしてみたものの・・・
それからは友人たちがTik TokだのInstagramのリールだの・・・
西洋占星術上2021年から「風の時代」に入ったという。
目に見えない「風」は情報や知識・コミュニケーションなどを表し、見えないものが
意味を持つようになり、想像力・思考力・柔軟性が必要で自分の好きなことや、
やりたいことを行動に移す人が増えていくという。
「好きなことを起業に!」というワードが飛び交うなか、Web3・メタバース・NFTなど、
理解するためにパワーの必要なことばかりなのだが、ここが時代に乗れるかどうかの
分かれ道かもしれない!と必死で学んでいる。
65歳を「もうだめだ!」と思うか「まだまだ!」と思うか?
「人生50年・・」と舞っていた信長の時代はとうに終わった。
さあ、桜の花も咲き始めた🌸
「まだまだこれからだ!」と自分に言い聞かせる「新年度」だ!
昨年末、公募展の案内を、いただいたときは驚いた!「秋耕展」
私の名前と発音が同じだった。
昨年の個展に出した代表作「ビワを拾う子」が、小作品部門で「奨励賞」を受賞した。
それが国立新美術館に2月9日~21日まで展示されたのだ。
フリーで活動すると受賞というのは無縁だと思っていたので、素直に嬉しい!という感情がわいてきた。
昨年初めての個展は、残念ながら緊急事態宣言延長ということで、人通りのほとんどない東京交通会館だった。
リベンジの意味を込めて今年9月4日~10日まで、東京交通会館で、第二回個展開催を決定しているが、
公募展という誰でも参加できる間口の広いところで、私の作品がどう評価されるのか?不安な出展だった。
今回の受賞を励みとして、今後の公募展にも応募していきたい。
日本がグレゴリオ暦を使う前に、使われていた中国暦では今年は2月1日が中国の正月に当たる。
2011年5月から上海に通うようになり、何度か上海で中国の正月を過ごしたことがある。
私の師である上海師範大学美術学院の張信教授の自宅は、上海市の中心部のマンションで、私は徒歩で通えるホテルを常宿にしていた。外国人はほとんど泊まらないが、中国国内では高級ホテルだ。
なんと言っても10階でも水圧がある暖かいシャワーが出るというのが、笑えない基準だ!ただし、もちろんウオッシュレットなどはないが、水洗トイレであるだけでも高級なのだ。ただし日本人が思っているような柔らかトイレットペーパーではなく、水に溶けにくいため日本の感覚でペーパーを使用しようものならあっという間にトイレが詰まり、何度かホテルの人に「シュッ・ポン」というので助けてもらった((´∀`))
ホテルの話をすればキリはないのだが、ともかく10階の部屋まで爆竹の煙が上がってくるのには驚いた!しないが見渡せるホテルの窓の外は真っ白!
もちろん爆竹の音にも悩まされたが、すでに大気汚染問題から爆竹の使用が午前零時までと市内は制限されていたので、音が鳴りやんで眠れると思ったら気密性の低いホテルの窓から煙が・・布団を被るようにして眠ったのを覚えている。
今年は北京オリンピックのために、爆竹も規制されているとニュースで知った。コロナ禍にあって正月くらいは楽しみたいと思っている中国の人たちにとって、この五輪はどんな意味を持つのだろうか?
必ず正月の挨拶が先生からWeChatで届く。
またいつか上海で正月を迎え「新年好!」と、先生に挨拶をしたいものだ!
和柄コンサルタントの成願義夫先生に、私に合う柄を選んでもらった。
「雪持ちの竹」とは、笹に雪が降り積もり、その重さで、まっすぐである竹が
撓んでいる様子を表したものだ。
私が自己紹介をし、先生が私に質問をしながら選んでくださったのだ。
後日、その時のことを先生からお聞きした。
「お話を聞きながらあなたの気持ちにシンクロしたような不思議な感覚でした。
この柄だと思って、説明を始めたら私自身が、あなたのつらかった思いなどが思い浮かんで、
涙が出てきてしまいました。あまりないことですが、不思議な時間でしたね。」
「雪持ちの竹」の意味は、その姿は雪の重さに折れそうになるんだけれど、
限界になると笹の上から雪が滑り落ちる。
そしてまた元のまっすぐな竹の姿となり、春になればまた伸びるとのこと。
「だからあなたは、辛いことがあっても、困難を乗り越えてきたのでしょう。
雪は必ず落ちますからね!」
先生の優しさが、私のいつもは抑え込んでいるような感情が一気にあふれ、
ズーム中なのに、くしゃくしゃの顔で涙が止まらなくなった。
10人鑑定の5番目だったが、自分が終わるとズームのビデオをオフにしてしばらく
泣きじゃくっていた。結局、最後にやっとカメラをオンにできたのだが・・・
後日、先生のお話を聞きながら、私は4年前に亡くなった父のことを考えていた。
誤嚥性肺炎を繰り返し、熱が出ては入院し、下がれば退院を繰り返していた父は
「家で死にたい」といった。訪問治療に切り替えることができ、もう入院しなくてもいい、
ずっと家にいることができると伝えた日、「お前のおかげで、わしの人生は幸せだった」と
言ってくれました。
聴覚をほぼ失って5年。父の介護をしてきましたが、悲しみが襲ってきたのは
亡くなって四十九日が過ぎたころからです。
車の運転をしていて突然涙が溢れたり、布団に入って子どものように泣いてみたり。
(私はこんなに、父のことを好きだったのだろうか?)と。
成願先生の口から語られる言葉に、まるで父に言われているような心持になっていました。
書家の活動を応援してくれていた父の、今の私への励ましに思えたのです。
先生との共有した時間は、言葉ではうまく説明できませんが、良いご縁をいただいたことに
感謝しております。
今後も和柄についても学ばせていただき、9月の個展につなげていきたいと思います。
2022年がスタートしました。
今年は9月4~10日東京交通会館での個展が決まりました。でも9月の個展ということは、
6月には額装に出します。「馬子にも衣装」と言いますが、額装していただくと作品の格が上がります。
コロナ禍の中、自宅での仕事が増えていますが、その分、年末年始部屋に居ながらにして繋がれる
音声アプリclubhouseに、はまっておりました(笑)
昨年5月の個展の時にお話をした人に誘われて始めました。最初はその人についてルームをまわることに
なるのですが、最初にお友達になった方が「Dr.Bala」ドクター・バラというドキュメンタリー映画製作の
第一回目の打ち合わせの場所でした。
私は聞いているだけだったのですが、打ち合わせが終わって雑談になった時、
「聞いているのは琇香さんだけだから、一緒に話しましょう」と会話に入れてもらいました。
「でも私は映画作りが全く分かりません」というと、
「わからない人の意見が聞いてみたいから構わないよ」と・・・
まるで居酒屋でフリートークをしているような感覚でとても楽しく、ファン1号の認定をもらいました。
映画製作のクラウドファンディングが始まった時で、私のできることを考えました。
地元のラジオ局を紹介したり、上映場所を探したりするような協力をしました。LAに住む監督や
慈恵医大の耳鼻科の先生、コマーシャルプロデューサーなど、リアルでは絶対に会えない人達と、
仲間と呼んでいただける関係ができたのはclubhouseのお陰です。
ただし、いろんなroomがありますから、波長の合うお部屋に入ると居心地がいいところに入って、
楽しい時間を過ごしたいですね。
是非「Dr.Bala」を検索してみてください\(^o^)/
上海師範大学の美術学院張信教授(昨年退官)に2012年から師事し、マカオの書画協会長ともご縁をいただきました。
彼女から昨年末「マカオの中国返還20周年記念書画展を企画しているのですが、出展してもらえますか?」という依頼をいただきました。
内容は「祝賀」イメージでということでしたので、中国には無い日本の「メタリック書道液(呉竹)」の金色を使って「輝」を書かせていただきました。この墨液は上海の張先生に差し上げて「中国には無い!」と大変珍しがっていただいたものです。
10月25日の式典では「リボンカットゲストだから着物を着てきて!」というリクエストでしたので、準備して行ってきたいと思います。
彼女へのお土産にInstagramでご縁をいただいた福光美保さんの傘を持参いたします。
皇室御用達(前原光栄商店)の傘に桜をデザインしていただきました。
名前は私の書いた文字(日本では使われていない漢字なので)を書き写していただきました。
喜んでいただけるとよいのですが・・・
帰国後、福山市長にもご報告の予定です。
個人でも書の原点である中国との国際交流のお役に立てれば幸いです。
(珍道中?の様子はブログで報告いたします)
帰国後の報告をお楽しみに(@^^)/~~~
昨年3月18日、父を家で看取った。桜はみることが難しいだろうと、桜盆栽を買ったが、花を見ることはできなかった。
「私はこんなに父を好きだっただろうか?」と自分でも驚くほど、父の最期をみとるまでの日々がこの一年頭から離れなかった。
一年桜だという盆栽に小さいけれど今年も花が咲いた。最近インスタグラムで知り合った「真右衛門窯」のぐい飲みを買った。一目ぼれの衝動買いだったが、手のひらに収まる感覚も、深みのある色合いも素敵だった。
父と二人でささやかな花見をした。毎晩晩酌を欠かしたことのない父だった。私は父に似ているのだろう。肝硬変になっても一人で飲んで寝る習慣は変わらない。飲めるうちは大丈夫だと、長く病気と付き合ってると自己診断できるようになる。
父は家で最期を迎えることを望み、私は私のできる限りのことをしたつもりだが人の最期をみとるということは、家族には惨いことでもある。ただ家で看取ることを決めて父に伝えたとき「お前のおかげでわしの人生は幸せだった」といってくれた。その言葉だけが寂しさを癒してくれた。
人は生き様を選べるが、死にざまを選べる人がどれほどいるだろうか?最期を迎える日まで、意味のある毎日を過ごしたいと思いながら「字を書く、絵を描く」ことを心掛けるようになって、それまでの私の作品と少し変わってきたようにも思える。
喜んでいただけるものを作りたいという思いが伝わる作品に出合えると嬉しいものだ。私もそうありたいと父に伝えた・・・
30年前、私は夜間定時制高校の教員をしていた。その時の、卒業生が居酒屋を開き「七周年記念」の案内はがきをくれた。
当時はいろんな事情で、夜間定時制に来る生徒がいた。彼はそんな中で15歳で飲食店で働きながら4年で卒業した。卒業の時「池尻さん、俺、絶対自分の店を持つからね!」といい、実現させたときは祝いに行った。ただ、飲食店を維持していくことは私の街では大変なことだとわかっていた私は、内心(大丈夫かなあ?)と心配していたのも事実だ。
7年続けるということは、私の街では(つぶれない店)の認定をえるようなものだ。よく頑張ったと思う。挨拶状に添えられた彼の句を色紙にすることくらいが、今の私の気持ちの表し方として一番よいと思って書いてみた。
どう書こうか?と迷ったが、まだまだこれからなので(未完成!)の気持ちを表したくて、未完成の感じで書こうと思った結果がこれだ!
持参したとき彼も彼の奥さんもとても喜んでくれた。私にできることで、人が喜んでくれることが、今の私の一番の喜びだ!この道に進んでよかったと思える一瞬だった!(^^)!
福山大学講師学院設立10周年記念行事の一つとして、上海師範大学張信教授による講座が設けられた。「中国と日本の書道指導方法の違い」について実技を交えて話された。
張先生は東京で10年書道を学ばれた時期があるので、日本語で講座をされ、日本の書道指導について、理解されている。「日本の書道は習字であり、中国の書道は書法です」といわれた。
大学などで専門に学ぶ以外は、日本ではほとんど「書道教室」に通って書道を学ぶ場合が多い。そして日本に数ある書道会の中で師範となり指導者になる。よって指導者の実力に差があるのが事実であり、そこの会の「手本」を書き写す。日本の書道は「習字」なのである。
中国では手本は古典である。小学生であってもひたすら古典の臨書をして書を学ぶ。書法を学ぶのである。だからどの指導者についても、どんな書体を多く学ぶかという違いはあれ、日本のように指導者によって文字が違うような差はないのである。
作品作りでは、古典の臨書を基本とした中国のものは「味がない」「印刷のよう」という感想を持つ人もいるが、「美しい」と表現をする人もいる。一番美しいとされる古典の臨書を繰り返してきたからだろう。
日本でも臨書の大切さを口にする指導者は多いが、それぞれの古典の特徴まで指導してくれる人は少ない。私が初めて臨書作品を書くとき、当時の先生に言われたのは「本屋さんにいって、法帖をみて、自分の好きなものを選びなさい!」と言われた。二玄社の中国書法選の本棚の前に座り込んで時間を忘れて端から本を開いた。
意味など分からないのだが、それぞれの書体の特徴の違いを眺めながら「かっこいい」「こんな字を書きたい!」と直感で選んだのが顔真卿「多宝塔碑」だった。
夢中になって書き写しながら、それまで自分の楷書がどうして上手にならなかったのか?わかってきた。書法を意識していなかったのだ。手本を写すことは上手になっても、点画の筆の運びを理解できていなかったことに気付かされた。
書道をやっている皆さん!初心者でも経験の長い人でも、一度何か一つお気に入りの古典を見つけて臨書をしてみませんか?きっともう一段ランクアップしますよ!(^^)!