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2018-03-01

「STOREHOUSE」掲載記事

【59歳で書家になった伯母】
「ここが私の書道部屋」
そう言って通されたのは、伯母が祖母と住む日本家屋の一室。ほのかな墨の香りに懐かしさを感じた。物心ついた時から“先生”というイメージであった伯母。定時制高校や特別支援学校に教員として勤めた。
「麦茶どうぞ」
よく学校でのさまざまな体験や生徒たちの話を聞かせてくれていた。そんな伯母が「書家」になったと聞いたのは2年前のことだ。書家の定義とは【中国古来からの云われ】――「漢詩が詠(よ)める」「書が書ける」「画(え)が描ける」「印が彫れる」こと。現在は本場中国でも日本でも、それぞれ分業になってきたようだ。伯母は、そのすべてを日々取り組んでいる。壁にかかった「没作品」という楷書が400字ほど書かれた作品について、こう説明してくれた。
「これは4時間くらい。書き始めたらご飯も忘れて書くよ。途中で止めたら墨の濃さ字も変わるしね」
「3年間、2ケ月に一度の上海通い」
伯母は全力で33年間教員を続け、身体を壊した。昔から何事にもまっすぐ向き合い、はっきりとものを言うタイプだ。安静を求められる中、時間を無駄にしたくないとカルチャースクールのチラシを見て、通い始めたのが田中蘆雪先生の書道教室だった。この出会いを皮切りに、伯母の運命は変わっていった。書に関心を抱きつつも、体は教職に復帰することが難しいまでに悲鳴を上げていた。
教員退職の前月、福山大学福山孔子学院で行われた2日間の水墨画講座を受けた。このとき蘆雪先生を交えて講師であった上海師範大学の張信教授に出会った。
「上海の書道界トップである張先生に『よければ私のところに勉強に来ませんか?』と言ってもらって。作品を評価されたというより、相性が合うと感じてくれたみたいじゃね。退職のタイミングでもあったし、その場で『行きます』って返事したんよ。今思えば無謀だったね(笑)」
2ヶ月に一度のペースで上海に通い、張教授からマンツーマンのレッスンを受けたのだという。話せなかった中国語も必死で勉強した。それから3年間が過ぎ、ようやく師範となる許可を得て、書家「池尻琇香」が誕生したというわけだ。59歳だった。
「商売には向いとらんのんよ」
晴れて書家になった伯母は、張信教授の編集した中国の小学生書道教科書を、著作権契約を結び日本人向けに出版した。筆先の運び方が分かりやすく記され、日本にはこれまでなかった「米字枠」【縦横の垂線中央を通る45度の斜線を2本加えた練習枠】は、角度や長さの目安となり文字のバランスが取りやすいのが特徴だ。「せめてのし袋や自分の住所・名前を小筆できれいに書きたい!」という大人たちの意見も多く、独学の参考になるものを作りたかったという。
また、「小学校の書道授業指導で、書道経験のある教員は少ないの。だから、この本を小学校の先生たちの研修で使ってほしいと思ってるんよ」と、教育への思いは違った形で残り続けている。
張教授の指導は一区切りついたが、上海の国際書道コンクールへ日本人学生の出品依頼を受けるなど、中国と福山市との橋渡し役も担う。体を壊し、職を退いたとは思えないほど精力的に活動する伯母は、「作品を売るよりも、『自分の家のここに、こんな文字を飾りたい』と依頼してくれる方のために、書きたいと思ってるんよ。原価や労力をお金に置き換えるのが下手!商売には向いとらんのんよ」と笑う。
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